|
マルファン症候群について |
私の持病・・・それは、マルファン症候群。 | |
現在、医学の進歩により寿命はほぼ2倍となり、適切な治療と医学的管理を行えば、通常の寿命を全うできるようです。以前は、平均寿命30歳くらいと言われていました。私の父と叔父も31歳で亡くなっていたため、自分が30歳を越えるまでは、それ以降の自分を想像できませんでした。父が26歳の時、解離性大動脈瘤で倒れたことで、マルファン症候群と診断されました。 遺伝するため、私と妹は子供の頃から日常生活に制限がありました。 26歳で大動脈瘤の手術をし、人工弁と人工血管が入っています。破裂予防のための手術でした。父のおかげで、今の私があると言えます。術後は、運動能力があがり、息があがったりなどもなく、少し、しんどいな、と思っても、少し休めばまた元の拍動に戻り動ける、という感じで、手術して初めて、それまでどれだけ心臓に負担がかかっていたのかに気付きました。 それから10年間、いろんな事にチャレンジし、元気に過ごしました。術後、ワーファリンを飲み続ける生活が始まったのですが(血が止まりにくくなるため、怪我をする恐れのある仕事やスポーツなどは避けます。また、人工弁には細菌がつきやすいため、虫歯や感染などには細心の注意をはらいます)、33歳の時に脳梗塞で倒れ、奇跡的に後遺症ほとんどなしで3週間ほどで退院、自宅療養も含め、1か月で職場復帰します。 35歳の時、解離。自分は手術をしていたので、もう大丈夫と思っていました。 しかし、人工血管から下の、自分の血管にヒビが・・・。広範囲にわたっていたため、手術はできないと言われ、Stanford B型だったので、厳重な安静と高圧治療が施され、1ヵ月後に無事退院し、現状維持の生活が始まりました。 (注: ↑ これは、2009年時点での治療法です。医療は日進月歩で、去年できなかったことが、今年できるようになったという症例が2つもあるのだそうです。私の主治医は、2014年現在では、解離後、ステントグラフトを入れるのが早ければ早いほど治りも早く、「解離性大動脈瘤は治せる」病気になる、と断言していました。20年後くらいの教科書はそうなるだろう、と。 命を落とした父と叔父が、今だったら生き延びられる・・・私たちはそんな時代に生きているのだと何とも言えない気持ちになりました) 自分では、日常生活で無理をしないようにしてきたつもりだったので、解離したと知った瞬間は困りました。これ以上、どう気をつければいいの、と。 しかし、解離するときは、寝ていても解離するのだと聞かされ、ビクビク生活するのも本意ではないため、制限は増えたものの、それだけは守って、無理をしないようにして、やりたいことをやる人生にしようと決意します。 |
ワーファリンのこと | |
この薬は、血液を固まりにくくするもので(機械弁に血栓がつきやすいため)、定期的に受診、血液検査(トロンボテスト)が必要です。その結果により、薬の量が決まります。 飲んだり飲まなかったりはNG。必ず決められた量を、できれば決まった時間に毎日飲むようにします。ワーファリンの効果は、飲んでから2~3日後で、効き目が切れるのも2~3日後になります。 抜歯や手術、他の薬を飲むことになった時は、事前にどんな薬を飲んでいるのかを知らせ、主治医に相談します。食べ合わせや、他の薬との飲み合わせもあるので、注意が必要です。 ビタミンKを含む食材(緑黄色野菜、山菜、海藻など)は、一時的な大量摂取を避けます。特に納豆は抗凝固効果を弱めるので、食べないようにします。他に、クロレラ、青汁、もありますが、それ以外の緑黄色野菜や山菜、海藻などは、食べないわけにもいかないので、つけあわせ程度にし、食べ方にムラがないようにします(植物中のビタミンKは、葉緑体の中に多く含まれています)。 日常生活で気をつけることは、薬を飲んでいる場合、血が止まりにくくなるので、出血の恐れのあることは避けます(危険な仕事や運動、バイクに乗るなど)。 薬の効きには個人差がありますし、食事や体調によっても影響されやすいのですが、飲み忘れたりして薬の効きが悪くなると、血栓ができやすくなり、脳梗塞など引き起こすこともあります。 女性の場合、この薬を飲んでいるときは、妊娠を避けてください。もし妊娠を希望する場合は、事前にドクターに相談しましょう(ワーファリンをへパリンに変えるなど方法があるそうです)。 それから、私はドクターに、「もしものために薬は1ヵ月分余計に持っているように。地震などの災害に遭ったとき、少なくとも1ヵ月分あれば、復旧まで何とか持つだろうから」と言われ、余分にもらって保管してあります。常に新しいものが保管されている状態にし、古いものから飲んでいます。 |
マルファン症候群とは | ||
フィブリリン(fibrillin:結合組織の重要な部分を構成するたんぱく質)の構造を決定する遺伝子の異常により発症。結合組織は全身に存在するため、様々な症状があらわれます。 また、軽いものから重いものまで個人差があり、様々な部位にあらわれます(筋骨格系、眼、血管と心臓、胸部など)。死因の多くは、心臓血管の疾患であるため、注意が必要です。 急性大動脈解離は、中高年に多く、若年層での解離は見逃されやすいので、胸部や背部に激痛があったり、広範囲にわたる背部痛や、移動する痛みを感じた場合は、すぐに検査してもらい、マルファン症候群であるかないかの確認をとりましょう。 組織が脆いので、強い衝撃や怪我などにも注意が必要です。 | ||
| 何十年も前ですが、マルファン症候群とは知らずに、長身であるためスポーツ選手となり、バスケの試合中に突然死した選手がいたという記事を読んだことがありました。 『マルファン症候群』であるとわかっているだけで、助かる命があります。根本的な治療法は残念ながらありませんが、上手に付き合うことはできます。 |
マルファン症候群の特徴 | ||
●骨格・・・・・・・ | 骨の変形、奇形。細長い部分に異常があらわれるため、長身で細い 外見になることが多く、関節が緩んでいます。歯並びが悪くなったり もします。 | |
●心臓血管・・・ | 大動脈弁閉鎖不全、解離性大動脈瘤など。結合組織が完全では ないために、血管の壁が破れやすくなっています。命の危険が伴う ので、注意が必要。 | |
●眼・・・・・・・・・ | 近眼、水晶体転位、網膜剥離など。 | |
●肺・・・・・・・・・ | 肺に損傷の危険あり。気胸など。タバコは吸わないことが重要。 | |
●身内にマルファン症候群の人がいる・・・まれに、マルファン症候群ではない両親から突然変異でマルファン症候群の子供が生まれることもあります。 | ||
心臓血管外科や、循環器科のドクターは、マルファン症候群を知っている場合が多いらしいのですが、他の科のドクターは知らないことが多いそうです。 最近では、詳しく書いてある文献などありますが、以前は、本屋などに置いてある医学書を見ても、マルファン症候群のことは、ほんの数行しか書いてないことが多かったでした。 多くの器官に症状が出る可能性があるため、数種類の科の診療が必要になることもあります。心臓血管外科、循環器科、整形外科、眼科、歯科、などとの連携が必要です。 |
最初の手術 | |
2000年10月10日入院、19日手術、11月11日退院。そんなスケジュールで終えた大動脈瘤形成・弁置換手術。(最初と言えば、正確には1988年の自然気胸の手術が初めてではありました。) 自己血輸血のため、手術前から自分の血をとったりと、準備は始まりました。 19日の手術までに、検査もいろいろありましたが、平常心でした。 前日夜、睡眠薬が処方されたのですが、飲まなくても済んだくらい、自然に眠りに落ち、当日も普通に起きました。 当日、術前の準備もいろいろ。まず、お腹の中をカラッポにします。要するに、強制的に“出す”のですが、薬剤を入れてから、30分は我慢してね、と言われたのですが、無理。 10分程度でギブアップ。 術衣に着替え、麻酔がよく効くようにと、腕に筋肉注射します。めっちゃ痛い。 その注射のあとは、ふらつくので、手術室まで、横になったまま移動。 テレビでよく見る、円形のあかりの下の手術台に乗り換えます。 いろんな機器の音が聞こえてきます、BGMにクラシック。入院してから、看護師さんに「どんな音楽が好き?」と聞かれ、「クラシック」と答えたのを思い出しました。ここで流してくれるためだったのか。 麻酔のマスクを当てられてからすぐにもう意識はない。 次に目覚めたのは、ICUに運ばれる途中でした。 意識は朦朧としていて前後は分からないけれど、「聞こえる? 聞こえたら握ってみて」と言われ、誰かの指を握ったのは覚えています。 次にICUで目覚めた時、心電図計のピッピッ・・・という心臓の動きをあらわす音が、私の耳にはパラン、パラン、と散って聞こえて、第一声は「私の心臓、しっかり動いてる?」でした。 それからは目覚めるたびに、喉の渇きとの格闘。 食事はもちろん、水を飲むことさえできなくて、管も鼻から通っていたのもあり、口が乾いて仕方がない。喉の渇きを訴えると、口元を水を含ませた脱脂綿で拭いてもらえたが、すぐにまた乾く。しかし、口を湿らすだけしかできないので、ひたすら耐えました。 術後、割とすぐに、「今、酸素を入れてるけど、頑張って自分で呼吸してね!」と、早々に鼻から肺へと通っていた管を外されてしまう。 なぜかその時、深呼吸しないと、肺が悪くなっちゃう!と思って、術前から説明を受けていた腹式呼吸を繰り返します。 息をする、ただこれだけのことが、ものすごく大変。普段は意識もせずに呼吸していたのに。 呼吸が自然にできるということは、健康な証拠なのだと身に沁みます。 そして、声が出なくなっていることに気がつきます。麻酔の管が喉を通っていたので、術後、声が出なくなることもあるのだそうです。カスカスで喋るのもやっと(声は、しばらくしたら普通に出せるようになりました)。 しばらくして、ゼリーやヨーグルトなど、柔らかいものを口にできるようになります。 「食べる」こともまた、呼吸や喋ることと同じように、とてもエネルギーのいることでした。 ひとくち、ふたくち、食べるのが精いっぱい。 モリモリ食べられるのは、健康な証拠。 1週間ほどで、身体に入っていた管という管はすべて抜けました。 縫合の痕も、ドクターが「傷が残らないように」と時間をかけて、細かく縫ってくださったので、今ではスーっとスジが入っているかな~?くらいのきれいな線です。 日毎、元気になっていくのが感じられました。初め、違和感があった人口血管も、なじんでいくのがわかって、窓の外の光が生命力にあふれているように感じられました。 最上階の美容室に、洗髪に通って、貧血(?)で倒れ、みなさんをビックリさせてしまったこともありました。急に動きすぎたようです。 ただ「生きる」ために生きた時間。 「生命」をかみしめていました。 退院直前に、発熱(風邪をひいたようでした)、主治医に「もうちょっと(病院に)いるか?」と聞かれましたが、予定通り退院します。家でしばらく寝て過ごす時間がありましたが、しばらくしたら熱も下がり、風邪も治っていきました。 その後は通院で薬の管理です。ワーファリン、パラミヂン、アスピリン(小児用バファリン)が処方されます。 退院後、2月には社会復帰。 貴重な体験となりました。 その後、海へ山へ各地の旅へと、活動的な10年を過ごします。 |
脳梗塞のこと | |
2007年、12月8日。月曜に抜歯の手術を控えた土曜日、入院までに預かっていた仕事を片付けなければと、休日出勤します。何とか終わり、21時頃帰宅してご飯を食べていたところ、食べている最中に、口の右端から、よだれがパタパタと胸に落ちます。「あれ?拭かなくちゃ」と思うけれど、そのまま特に気にもとめず、再びご飯を口に。すると、今度は口に入れたはずのご飯が、パラパラ口からこぼれ落ちてくる。箸で口に押し込んでも押し込んでもご飯が出てきて、「拾わなくちゃ」とぼんやり思うのに、行動には移さず(今にしてみれば、この時、もうおかしかったのだと思います。普通なら、すぐに拭いたり拾ったりするので)。その時にケータイにメールが入り返信文を入力するのですが、うまくキー操作できずに、入力ミスが続きイラッとします。一度左手からケータイが落ち、拾って続きを入力しようとするのにうまくできず。 またケータイが左手から落ち、拾おうとかがんだ瞬間、椅子から落ちる。落ちた瞬間「恥ずかし~」と先に思う。この時、自分がおかしいとは疑いもしませんでした。起こしてもらうけれど、身体が思うように動かなくて、ゆっくりとしか話せず、頭もぼんやりしています。「なんだかフワフワする」と訴える。叔父も叔母も身体を支えてくれ、自分でも起きようとするけれど、起きられない。 その時、傍にいた叔母が「顔がおかしいから、早く救急車呼んで!」と叔父に言います。 それでも、まだ自分に深刻な事が起きているとは自覚できないでいます。 「口の中のもの、出しなさい」と言われるけれど、それもうまくできない。 救急車が到着し、担ぎ込まれ、救急車の中で、救急隊員の人が「33才女性、脳梗塞、左半身麻痺」と言っている言葉を聞いて初めて、自分に起こっていた事に気付きます。 「名前は?」と聞かれ、言おうとするのに、ラ行がうまく発音できなくて、「あれっ」と思う。更に、「左手動かせますか?」と聞かれ、グーパーグーパーしようとするのに、やんわりとしか動かない。一瞬驚きますが、「そうか、脳梗塞か・・・」自分にも起こったか、と案外冷静に受け止めます。脳梗塞の可能性があることは、主治医から聞いていました。 その時住んでいた地元の病院に着くまで約15分。意識はあったりなかったりしましたが、「着きましたよ」の声で意識が少し戻ります。検査の時も意識はずっとありました。CT検査の途中、急に意識がはっきりして(血栓が溶けたのか)、直感的に「もう大丈夫」と思う。 その後、人工弁に血栓がついているようであれば、開胸して血栓を取り除いた方が早いから、ということで検査します(エコー)が、血栓は見当たらなかったので、そのまま入院し経過を見守ることに。 抜歯術前の血液検査で(ワーファリンの飲み忘れもあって)、手術に備え、薬の量を減らす予定でしたが、むしろこのままでちょうどいいかも(INR1.7)、ということで薬の量の調整はしないまま帰宅。忙しさのせいにするつもりはないけれど、その頃はとても忙しく、オーバーワーク気味であった事も事実。疲れも溜まっていたと思われます。いろいろな条件が重なって脳梗塞になったらしい。しかし、血栓がジェル状だったため、少し血流があったであろうこと、詰まった場所が良かったため左半身の麻痺が軽かったこと(あと1mmでもずれていたら、もっと麻痺は重かっただろうという話でした)、という、ドクターもビックリするほどの好条件が重なって、奇跡的に後遺症ほとんどなしで2007年12月28日に退院します。日常生活そのものがリハビリ代わりになるだろうから、わざわざ病院に通う必要もなし、とのこと。 数週間の自宅療養期間を経て、2008年1月15日、職場復帰します。左の動かしにくさ、喋りにくさも回復し、病前とほとんど変わらないと言われます。 薬の飲み忘れには注意! INR1.7以下になることなど、脳梗塞前にも時々あったのに、その時に限ってなぜ脳梗塞になったのか。確かにオーバーワークでもありました。不運としか言いようがないのですが、好運としか言いようがない条件が重なり、大事に至りませんでした。 深刻な事になっているのに、その時、自分で全く気付かなかったことに怖さを憶えました。 |
急性大動脈解離のこと | ||
2009年12月19日。夜9時半頃、お風呂上がりに発症。背中に、下へと降りてゆく痛みが走り、激痛、というより、胸が締め付けられるような苦しみ(痛みの強さで言えば、痛み止めの筋肉注射の方がよほど痛かった)で、呼吸は浅く早くなり、様子をみたけれど痛みはとれず、明らかに普通の痛み方ではなかったので、再び地元の病院へ。 検査の結果、大動脈解離と診断され、その病院では手に負えないとのことで、救急車で高速道路を利用し2時間かけて、循環器病院に搬送されます。 発病の兆候は全くわからなかったのですが、今となっては、お風呂に入る前、急に身体がとても重だるくなり、「疲れかなぁ、お風呂入るの、ちょっとだるいなぁ」と思っていたことは憶えています。 それに、もともと血圧はそんなに高い方ではなかった(90-58とか)。高血圧の方に多い病気と聞いているけれど、マルファン症候群は、例外です(もともと組織が弱いので。特に、大動脈は、第二の心臓とも言われ、ポンプの代わりを果たすためにやわらかいらしいです→心臓から駆出された血液が一気に全身に向かってすべて吐き出されてしまうと、心臓が拡張している(駆出がストップしている)間は全く血液の供給がなくなってしまい、全身に血流が途絶えることなく送ることができなくなってしまいます。それを防ぐために、大動脈が第二のポンプの働きを成しているわけです。そのために血管に伸縮性があるのです)。 循環器病院入院後、絶対安静と降圧治療で1週間ベッドに寝たきり。 ※この治療は、2009年時点でのものです。 CT検査の結果、変化なしとのことで、ベッドの上で起き上がっていい許可がおります。また、血圧を上げないように、食事、生活習慣などに注意します。同じ経過をたどって、室内をうろついていい許可、病棟内をうろついていい許可、病院内をうろついていい許可が1週間ごとにおります。最後の1週間で外出の許可がおり、早速、たこ焼きを買いに出る(笑)。 退院後は、1か月の自宅療養。その間、わずかな時間でも図書館に行くなどして身体を少しずつ慣らし、一時的な職場復帰に備えました。 その時困ったのが、血圧があがっている状態って、どんなとき? ということ。 どういうシーンで、どのように気をつけたらいいのかが全くわからない。 入院中は、気軽にドクターや看護師さん達に質問できたけれど(急に寒いところに出ないでね、とか、お風呂は心臓に負担がかかるから、できるだけ半身浴で、長時間の入浴は避けてね、とか、トイレでいきまないでね、とか。教えてもらいました)退院したらそうはいかない。 自分で何とかしなければ。 本屋に行って、血圧を下げる生活のための手引書となる書籍を探すけれど、高血圧の人が 血圧を下げるための本はたくさんあるのですが、解離をおこした人のための本がない。 なんとか1冊血圧を下げるために、日常どのように生活すればいいのかが書かれた本『血圧を下げるための生活読本』を見つけ、参考になりそうだったので、購入。 退院時、退院指導計画書として、規則正しい生活をする、ストレスをためない、睡眠時間はたっぷりとる、などの指示が書き込まれた書面をもらいました。 その後、本やドクターの話などを頼りに、自分なりに注意した点は、以下の通り。 | ||
●寒さには要注意。冬の外出の時には念入りに防寒、室内は20度前後に保つ。 (重ね着、手袋、マフラーなどで、できるだけ外気に触れる部分を少なくします。5℃以上の温度差には注意が必要です) ●寒暖の差にも注意。脱衣室と浴室、浴槽内の温度差を少なくする。 ●深い浴槽は心臓に負担をかけるので、浅い浴槽が好ましい。 ●長湯はせず、心臓がお湯に浸からない高さ(半身浴)で、熱すぎるお湯には入らない。 ●一番風呂は避ける(なるべく浴室があたたまり、お湯も熱すぎない状態で)。 ●寒い時期の水仕事や洗顔はお湯で。 ●トイレでいきまない。尿意は我慢しない。 ●冬のトイレの中は暖めておく(せめて便座だけでも)。 ●夏のエアコンの温度設定は高めに(外気温との差5度以上は注意)。 ●水分の補給はしっかりと(喉の渇きを感じてから飲むのでは遅い)。 ●ストレスをためない。感情の起伏を激しくしない。 ●睡眠不足は避け、静かな睡眠が得られるように工夫し、しっかり眠る。 ●疲れた時は、10分でも20分でも横になる。 ●朝起きがけにバタバタしない(朝は血圧が不安定)。→余裕をもって準備を。 ●塩分を控えた食事をとるようにする。 ●満腹のまま動きまわらない。 ●重たいものを持たない。 ●運動不足にならないようにする(冬は早朝や夜などの寒い時間帯は避ける。体調が悪い時や、悪天候の時は家の中でストレッチに切替えるなどの工夫を)。 ●痛みを我慢しない。痛み止めなどを利用して、ギューっと我慢するような状態を回避する(どのような痛みなのか、よく感じ分けましょう。いつもと違うような痛みならば、はやめの受診を)。 | ||
喫煙や飲酒をされる方は、どちらも良くないそうです(飲酒後の入浴とか)。 タバコは、やめるのがベスト。 自分の身体の感じでは、冬の寒さ、クーラーのききすぎた部屋にいる、重たいものを持つ、バタバタする、イライラする、数時間、身体を動かし続ける、お腹いっぱいの時、などで、胸、背中のあたりに違和感を覚えます。 そんな時は、しばらく横になって休むことにしています。 退院時に、看護師さんから、血圧の記録用紙をいただき、計ってね、と言われたので、マイ血圧計を購入し、最初は珍しがって、朝昼晩と計っていましたが、段々空欄が目立つように・・・。 (退院後、1、2ヵ月くらいは、様子見で朝晩くらいは計っておくとよいかもしれません) ドクターに、自分で様子がおかしいと思った時に計る程度でいいと言われ、今はほとんど使っていません・・・。 |
現在の状況 |
再解離後の、解離性大動脈瘤、上行弓部大動脈人工血管置換術のこと | ||
2015年8月17日に入院、20日手術。 術前の説明では、弓部大動脈瘤を人工血管に置き換えた後、本来なら上から順番に手術するのだけれど、後の事を考えると、今現在大動脈瘤になっているところは後回しにして、腹部大動脈を先に人工血管に置き換えた後、ステントグラフトを挿入するやり方を考えているとのことでした。 今、いちばんの問題は、大動脈瘤の径が55mmくらいとなっており、通常、60mmになると手術したほうがいいことになるのですが、マルファン症候群の場合は、血管が脆く破れやすいため、少し早目に(40mmを超えたら)手術した方がいいのだそうです。 しかし、治療の進め方として、将来大動脈をすべて人工血管に取り換えるため、前段階の手術として、下行大動脈瘤の治療をする前に、瘤にはなっていないけれど、7月まではなかった新しい人工血管を使って上行・弓部大動脈の治療を先にしようと思っている、とのこと。 この新しい人工血管は、形が自然な血管の形とは違っていて(カテーテルでステントグラフトを挿入するのに必要なスペースが充分に確保されている形状になっているため、腕や脳に行く血管の形が少し違っている)、腕や脳の方へ枝分かれしている血管のうち1本を左の鎖骨の下のあたりに少しメスを入れてそこの血管に繋ぐそうです。 これには理由があって、脳に行くための血管に人工血管をあらかじめつないでおくと、そこから脳にも血が流れるようになる、つまり脳を保護するために血液を送る通り道として活用でき(血液の循環を止める時間が少なくて済む)、肋間動脈をつぶした場合でもこの血管から脊髄への血流を確保できるため、安全・確実な手術になるとのことでした。 血流は変わるけれど問題はないそうです。 心臓を止めて手術をするため、人工心肺を使い、体温も28度くらいまで下げるのだそうですが、それで手術の時間が少し長くなる(10時間くらい)とのことでした。 (高齢の方によっては、血管がもろくなっていたりなどすると、脳梗塞になるケースもあるのだそうですが、私の血管にはCTの検査結果から見ても可能性は低いそうです) とにかく、身体に負担をかけないために、一気にやるよりは、何度かに分けて手術した方がいいということで、今回1回目の手術をすることになりました。 また、術後、出血が止まらないなど、何かあったときにすぐ対応できるように麻酔はすぐに覚まさずに、わざと麻酔を効かせたままICUに移すのだそうです。しかし、順調にいけば麻酔を覚まし、声も出せるようになり、様子を観て水も飲めるようになり、個室に移動もできるようになるそうです。 17日、レントゲン、エコー、採血と、検査が続きます。 18日にはへパリン化のための点滴が始まりました。 それ以外に特にすることもなく、穏やかに入院生活が過ぎます。 手術前夜、眠れなさそうなら眠剤出しますよ、と言われたけれど、必要なくよく眠れました。 当日は、病室から歩いて手術室へ(前回は病室で麻酔をよ効くようにするための麻酔を筋肉注射したので自力で行かなかったのに、今は歩いていくんだ・・・と思う)。 手術室入り口で身内と「じゃあね」とわかれ、手術の準備をします。 長い髪はゴムでまとめてキャップの中へ。 9:00、手術室に入り、中央のベッドに横になります。 粛々と準備が進みます。 しばらくはその様子が聞こえたり見えたしていましたが、麻酔で意識はなくなりました。 術前の手術の説明では、外科手術の中でも最も難しい部類に入るもので、開胸して人工血管に置き換えるために心臓を止める間、人工心肺を使い全身へ血液を送って、脳に影響なく手術を進めるために体温を28度くらいまで下げて行うのだとか。術後しばらくは不測の事態に備えて、麻酔が効いた状態にしておくため、自然に目覚めるのは翌朝になるだろうとのことでした。 手術にかかった時間は結局13時間(身体が大きめなため、体温を下げるのと上げるのに時間がかかりましたが、実質11時間)、ICUに移されたのは、22時頃だったそうです。 家族になされた説明では、以前の手術痕をもう一度開くことと、体温を下げることと戻すのに時間がかかったけれど、手術自体は完璧になされ、成功。 「うまくいきましたよ」と、主治医はにこにこしながら教えてくれたそうです。とても清々しい表情だったそうで、家族が面会できたのは、23時だったそうです。 話しかけられて頷いたのは覚えていますが、内容までは覚えてなくて、意識は朦朧として、ほぼ眠りっぱなしだったように思います。 翌日も、ほぼ眠っていて、ICU内でのことはほとんど覚えていません。 まず口からの管が抜けました。 喉と口が渇いて、吸い飲みで少しずつ水が飲めるようになったのは、ICUでだったか、個室に戻ってからだったか・・・? その日のうちにICUから心臓血管外科の病棟の個室に移ってきます。 その日もほぼ眠っていました。 22日、だんだん意識がハッキリとしてきて、身体の重さ、ものすごい重力を感じます。そして、やっぱり、すごく痛い。 しかし。はやく起き上がれるように、トイレまで歩けるように、と結構なスパルタで急かされます。 看護師さん的には、本当は、この日のうちに離床させたかったようなのですが、私は無理でした。けれど、翌23日、ベッド上で起こされ食事、ベッドから降りて立つ、などとにかく、動かされます(厳しいようだけど、はやく動いた方が、筋力の戻りも、患部の治りもはやいのだそうです)。ベッドから降りて立つことができるようになれば、がんばってトイレも自立、さまざまな管も抜けるようになっていきます。点滴の数も減り、数日で身軽になりました。 25日、個室から一般の病室へ移ります。 後は、ひたすらリハビリです。とにかく、動く。 でも、夜は痛くて苦しくて新生児並みに目が覚め、平らに横たわることができません。 左肩付近鎖骨の下も横に5cmほど切開したため(目が覚めたら左腕がむくんでいた)、肺に水が溜まり、横になると苦しいのです。結局、退院するまでベッドは頭の方を70度ほど起こしたまま眠り、それでしんどくなったらテーブルに枕を置いてそれにもたれかかるようにして眠ったりと、上半身は起こしたままでいることが多かったでした。 肺に溜まった水は、しだいに身体に吸収されてそのうち楽になるということでした。 こうして、棟内フリーとなり、リハビリのために棟内をぐるぐる歩きます。 27日、シャワーOK。 どんどん生活が元通りになっていきます。 ただ、麻酔や人工呼吸のために喉に通していた管の影響で、やはり声が出なくなっていました。肺に水がたまっていることも影響しているようでしたが、次第に出るようになるとのことでした。 動けるようになっても身体は重く、思うように動かせず、自分の身体ではないようでした。 左腕が特に重く、傷が痛くなくなって、身体をもっと動かせるようになって、筋力と体力の回復を待つよりありません。 リハビリの先生に、1日5000歩を目指すように言われました。 ただ、私の場合は、まだ大動脈瘤が残っているため、血圧120を超えない程度に保ったままの運動、しんどいようなら無理をしないように、とのことでした。破裂する危険があるので。 本格的に動けるようになるのは、次の手術の後です。 9月1日、CT検査。結果は良好。採血の結果も良ければ退院できると、はやくもお話がありました。 それまでひたすらに食事療法とリハビリに励む日々が続きます。 5日、退院。 思っていたよりはやく動かされ、思っていたよりも早い退院でした。 麻酔が覚めた時、2000年に受けた手術よりも、身体が楽だと感じました。医学は進歩しているのですね。そして、今では、死にいたる病ではない。感慨深いものがあります。 すでに次の手術の予定もほぼ決まり、それまでは自宅療養、食事療法とリハビリに励む生活が続きます。 (2015.9.6現在) 次の手術が10月15日に決まりました。9日から入院します。 身体にメスが入る(心臓をいじる)って、やっぱりタダゴトではないです。 退院後、2週間後くらいにようやく声が出るようになり(それでも、まだ腹筋に力が入ってないような声ですが)、体力も少し戻って、やっと普通のスピードで歩けるようになりました(もっと動けてるつもりだったんですけど・・・痛かったり血圧が安定しなかったりで、次の手術まで、体調を整えるのでいっぱいいっぱい)。 次の手術も、前回と同じくらいの規模で、同じような流れになるようです。 今回の手術は、イタリアの医療チームが120人くらいの患者を対象に成功させているやり方(身体にできるだけ負担をかけずに、カテーテルを駆使する方法)を考えているのだそうです。 診察日までの2週間の間にイタリアチームの発表を知ったりとかして、術式を練り直してくださったらしいです。 2度目の手術は、腹部大動脈の人工血管への置き換えと、胸腹部大動脈瘤へのステントグラフトの挿入を一気にやる想定で計画を進めているということでした。 あるいは、下腹部への人工血管の置き換えの手術をやって、その手術だけであまりに時間がかかるようなら、いったん人工血管置き換えの手術だけでやめて、数週間あけてからカテーテルでステントグラフトを挿入、という2度に分けての手術にするか、いずれかの方法になるようでした。 ステントグラフトを入れるためには、上や下にステントグラフトを固定する部分が必要になってくるのだそうですが、私の場合は、血管の上から下まで広範囲が解離しているため、ステントグラフトを固定する部分がないのだそうです。固定する場所をつくるため、まず心臓に近いところを人工血管に置き換え、次にお腹の血管を人工血管に取り換え、上と下の人工血管を着地点にして、ステントグラフトを挿入することになるのだそうです。そうすれば、お腹は切り開かないといけませんが、3度目の手術は、開胸する必要はなくなります(足のつけねを少し切るだけ)。身体への負担も大きく減ります。 弓部大動脈は既にステントグラフトのランディングゾーン(着地点)を持った人工血管への置き換えが終わっています。 2回目は、お腹を開いて人工血管に置き換え、下の方の着地点をつくるわけです。 しかし、着地点をふたつつくっただけではダメなのだそうです。 お腹の血管は、胃や腸や肝臓、腎臓などの内臓に行く血管が枝分かれしており、ステントグラフトを入れてしまうと、それらの血管をふさいでしまうことで血液が送れなくなってしまうので、内臓に行く血管にはバイパスをつけることになるのだそうです。そしてステントグラフトを挿入します。 自身の大動脈は太くなっていますが、血液はステントグラフトの中だけを流れるようになり、内臓に行く血管は、バイパスの中だけを通るように仕上がります。そうなれば、もう大動脈破裂を心配することはなくなります。 イタリアの医療チームの報告によれば、手術は1回目(胸部)、2回目(腹部)、3回目(ステントグラフトの挿入)で最後、の順番となるのですが、2回目と3回目の間は4週間くらい置いているのだそうです。 今回はお腹の血管の人工血管への置き換えとステントグラフトの挿入を同時にやる想定で計画を進めてきたのですが、3回に分けてやることも考えているとのことでした。 4週待つということにはいくつか意味があって、ひとつには脊髄を守るということがあるのだそうです。人工血管に取り換えるところには、腰動脈という血管が出ていて、今回人工血管に取り換えることで途中にある腰動脈はつぶれてしまい、脊髄に行く血の流れは少し悪くなる可能性があります。そこにステントグラフトを入れると、ますます流れは悪くなってしまいます。しかし、脊髄に行く血管というのは、流れが悪くなったとき、なんとか血流を増やそうとして「側副血行」という細かい流れが発達してくるのだそうです。 もしも腰動脈がダメになったとしても、他の血管が発達して脊髄に流れるようになることもあるかもしれない、それが発達してくるのを待つのに、少し時間を置いて様子をみてから仕上げの手術をするというのが手堅い方法だろうということでした。 しかし、脊髄に配慮する、ということや身体へのダメージを減らすという意味ではいい方法かもしれませんが、ひとつ手術が増えることになってしまいます。といっても、3回目の手術は傷の小さい、身体に負担のかからないものなので、2度目の手術にあまりにも時間がかかるようであれば、腹部の人工血管への置き換えだけでやめて、脊髄を守るということを最優先にすることを考えれば、分割して手術するのもいいのかもしれないということでした。 胸を切らないで人工の管(ステントグラフト)を置いてくることには、傷が小さく身体に負担がかからないということだけでなく、血管を切り開いて大事な血管を大気開放することで脊髄への血液の流れを悪くすることを避けるという意味合いもあるのだそうです。 そして、少し前までは、脇から下腹部までを切開する方法を考えていたけれど、今回はお腹の真ん中、胃のあたりから下の方まで切る方法を考えているそうです。 当時、内臓へと血液を送る血管は偽腔(解離してできた血液の通り道)を、足へと血液を送る血管は真腔(本来の血液の流れ)を流れており、再解離後、更に真腔が狭くなって右足の血流が悪くなっていたのだそうで(自分では気づいていなかったのですが、たまたま知っている整体師さんが気づいてくれて、主治医に相談した方がいいと進言してくださったのでした)、従来のやり方である、脇から下腹部までを切開する方法では、右の足に向かう血管がよく見えず、人工血管に取り換える時、一部解離したところが残る不完全なものになると思っていたのだそうですが、イタリアの医療チームが行った胃のあたりから下腹部までを切開する方法であれば、左右どちらの血管もよく見えるようになるため、より確実な手術ができるようになるとのことでした。 今回の手術は、消化器外科のドクターも2人手伝いに入ってくれるのだそうです。 そして、腎臓の下の血管を交換するだけなので人工心肺は使わず、血管を遮断して繋ぎ直し、を順番に繰り返して行われるそうです。 診察中、「一年前に来てたら、背中から脇、おなかまでを一気に切る壮絶な手術をしていたでしょうね」と言われ・・・ たった一年、今回の手術においては、たった数週間の間にできなかったことができるようになっていたりなどして進歩している。 ギリギリまで待つという選択肢もあるのかもですが、今回は決めました(また想定外の出来事がなければ、の話ですが・・・)。 (2015.9.25現在) 10月9日金曜日入院(12日月曜日が祝日だったため)。15日、腎動脈下腹部大動脈人工血管置換術、腹部臓器分枝へのバイパス移植術、胸腹部大動脈瘤に対するステントグラフト内挿術(人工血管置換とステントグラフト挿入、両方をすることからハイブリッド手術と言うのだそうです)を受けました。 従来のやり方は、肩甲骨の下のあたりから前の方に切って、脇、肋骨も2か所くらい切断して下腹の方まで切って広げて血管全体が見えるようにして一気に人工血管に置き換えるという、手がける手術の中で最も長大な皮膚切開で、何か所も血管をつながなければならず、時間はかかるし、大量出血に大量輸血が必要な、何よりもダメージの大きい手術なので術後なかなか社会復帰できず1ヵ月以上の入院になることもあるものだったのだそうです。 そして、中には下半身に麻痺が出る人もいるのだとか。 ステントグラフトを入れる予定の下行大動脈は、細かい血管が枝分かれしていて、その肋間動脈(肋骨の間を走る動脈)の一部が脊髄(背骨の中を走る太い神経)に血液を送っているのだそうです。この細かい血管をつぶしてしまうことで脊髄に血が行かなくなり、脊髄が一部ダメになってしまう(脊髄は脳と、主に足を連結する神経なので、脊髄がダメージを受けると、いくら脳がしっかりしていても下に指令が伝達されずに足を動かそうとしても動かない、足に何か当たっても何かが当たったという刺激が脳に伝わらない、ということになる)、結果、下半身の感覚がなく動かせない=歩けないということになってしまうのだそうです。 では、肋間動脈の血液の流れを再建すれば下半身の麻痺は防げるのではないかということになっても、どこから脊髄に行く血管が枝分かれするのかというのが人によって様々なため、手術中に脊髄に行く血管だとわかってうまくつなげるかどうかは保証がないのだとのこと。 また、肋間動脈を再建するために時間がかかれば手術時間がどんどんかかるし、やることの規模が大きすぎるし、肋間動脈をつくりかえることは難しいし、そうしている間にもダメージが増えていくので、開胸して全部を治すというのはいろいろと問題があると10年前からわかっているけれどなかなか解決できないらしいです。 そもそも、肋間動脈をうまくつくりかえても足が動かなくなる人が中にはいて、肋間動脈をつくりかえるとか、かえないとかではなく、血管を切り開くこと自体が影響しているのではないか? つまり、血管が開かれ血が出ると肋間動脈に繋がっている穴が大気開放され空気の圧にさらされることになり、今までは血液が流れて圧がかかっていたのが、開かれることにより圧が0になり、血液がそこからもれてくるようになります。 今までは血液が流れてその一部が肋間動脈に流れ込んでいたけれど、開放してしまうと、どこかしらに繋がっている血管から血液があふれ逆流するようになるのです。 逆流するということは、開ける前には脊髄に流れていたのに、開放することにより血液が逆流し、脊髄に血液が流れなくなり脊髄がダメージを受けてしまうのでは? この考えに基づき、この数年間、胸腹部大動脈手術のとき、肋間動脈は1回も再建していないのだそうです。 再建はしていないけれど、動脈瘤を開ける前に、クリップで血管をはさみ、血管を開けても逆流しないようにし、開けた瞬間にクリップではさまっていない血管があればすぐに縫いつぶすことで、足が動かなくなった人は1人もいないのだとか。 よって、血液が逃げていくこと自体が問題で、血液があふれてくるということは、どこかから血がまわってきているということで、細かい血管がつぶれてしまっても、どこかからまわってくるということでもあるのだから再建などしなくてもいいのではないか? 実際、下行大動脈をカテーテルを使ってステントグラフトを挿入し、胸を切らずに治すという治療をたくさん行っているけれど、ステントグラフトを入れた(肋間動脈をつぶした)からといって足が動かなくなった人はほとんどいない(ゼロではないが非常に少ない)のだそうです。 左の腕に行く血管の一部が枝分かれしていて肋間動脈に繋がっていて、内胸動脈(胸骨の裏側を縦走している血管)なども枝分かれして肋間動脈と繋がって脊髄にいっているのではないかと言われていて、腰のあたりにも肋間動脈に似たような血管があり上の方へ上っていって脊髄に繋がっていると言われているそうで、脊髄への血管の通り道はたくさんあり、肋間動脈だけではなく、他の動脈全部がバランスをとって脊髄に血液を送っているため、肋間動脈をつぶしてしまっても、脊髄への血液の血流は残るのではないか?ということが治療の進歩の中でわかってきたのだそうです。 そして、肋間動脈は再建しなくても何も起きないことも確認しているそうです。 (ただし、この件に関しては、専門家の中でも本当につぶしてもいいのか?など、議論は残っているそうです) しかし、一気に手術して同時にあちこちの血管をつぶしてしまうのはよくないようで、手術から次の手術までは、やはり少し時間差がある、というのが重要なのではないかということでした(その間に側副血行などが改善されるため)。 私の場合は、左の鎖骨の下の動脈を残してある(最初の手術で治療済み)ので、危険度は低くなるだろうということでした。 瘤が破裂しているとか、待ったなしの状態の人だとすれば、一気にやるしかないのですが、そうではなく分割する猶予がある場合はもう少しやり方を考えて、身体に負担がかからない方法を探る作戦をた立てるということでの分割手術の計画。 ただし、分割する方法が本当に安全かどうかもわからないとのことでした(待っている間に瘤が破裂する可能性もあるので)。 また、ステントグラフトを自分の血管の中に挿入したものの、エンドリーク(肋間動脈から血液が逆流すること。動脈瘤内の血流が残存している状態にもいくつかタイプがあるようです)」が出るかもしれないとのことでした。 中には出血が止まらなくて亡くなった方もいるのだとか。 それを防ぐために、肋間動脈の入り口に詰め物をするのだそうです。 説明をきいていても、二重三重の対策をとっていてくださるようで安心します。 もしも、術後、足が動かなくなったことを確認した時には、脊髄は脳脊髄液という液体の中に浮かんだ状態になっているのですが、脊髄がダメージを受けると、脊髄がむくんで太くなるので、中の圧が高くなり更にダメージをうけることになってしまいます。 ですから、むくんでしまった脊髄がダメージを受けないように背骨と背骨の間から針を刺して中にある脊髄液を外に逃がして圧を下げる(これをスパイナルドレナージと言う)のだそうです。 術後に足が動くかどうか確認してから脊髄液を逃がすための管を入れて脊髄液を抜くよりも、今回はあらかじめ、前日に管を通しておいて、術後の様子見て、何事もなければ抜く、という方法をとることになりました。 そのため、1度目の手術はしばらく麻酔を覚まさずに様子をみたけれど、今回は早々に麻酔を覚まし足が動くかどうかを確認するそうです。 説明通り、脊髄を保護するため、前日の夕方に、脳外科の先生によりスパイナルドレナージが施されました。 その後は寝たままとなります。 食事のとき、クランプして起き上がったのですが、頭がだんだん痛くなり、とても食事をとれる状態ではなくなったので、その日は早々に眠ることにしました。 翌手術当日。ベッドに寝たまま手術室に移動します。 今回の手術も6~8時間くらいという話だったのですが、13時間かかったそうです。 数日して起き上がれるようになった時に下を見た時に、おなかがぽこっと膨らんでいました。 水が溜まっているらしいのですが、何日か経つと自然に吸収されて元に戻るとのことでした。 今回は、前回の手術の時と比べると足の力が残っていて、立つ・歩くが楽でした。 ただ、下痢・嘔吐が激しく、点滴は順調に外れ、食事も少しとれるようになったものの、ふたたび体調が崩れます。 食欲はなく、食べても吐き、だんだん食べることさえできなくなっていきます。 食事が出ても、食べろと言われても今はしんどいだろうからということで、食事をいったん止めて、点滴で栄養を補充する日が数週間続きました。 そのまま入院が続き、しかしあまり先延ばしもできないため、3回目の手術が11月10日に決まります。先に手術を済ませて、あとからゆっくりお腹の方の治療を続けてもいいだろうということで様子を見たのですが、なかなかよくならず、体力も気力も低下したまま。 主治医からの、「あまりしんどいようなら、手術を10日でなくても、その翌週か翌々週にしてもかまわない」との提案で、17日に延期してもらいます。 続く下痢・嘔吐は、腹部大動脈を人工血管に置き換える時に、腸の方につながる神経を血管からはがしたため、機能が低下しているのだとか(調子が悪かったので、先生の話をしっかり理解できているかどうか・・・もしも理解していれば、そのようなことらしいです)。 そして1週間後。 体調は、ほんのわずかずつですが、よくなっているようでした。 気力も少し戻り、手術をがんばろうという気持ちにもなってきました。 そして、11月17日。 3回目の手術はカテーテルによるステントグラフト(人工血管)の挿入。足のつけねを少しだけ切開し、動脈に管を通し、その管の中にコンパクトに収められているステントグラフトを、目的の場所まで持っていき、置いてくるという手術です。 早ければ2時間くらいで終わる、とのことでしたが、6時間かかったそうです。 2度の手術よりは身体にかかる負担も少なく、回復も早く、わりとすぐに動けるようになりました。心配していた下半身の麻痺もなく、血管の手術は完璧に終わりました。 ただ、おなかの不調だけが残っているのですが、それは少しずつ良くなるのを待つしかないようでした。 手術後、一時的に食欲も下がり、下痢・嘔吐も少し悪化したように感じました。 ふたたび首につながる管から点滴で栄養を補充。 が、これも時間をかけてよくなるのを待つしかなく、入院は続きます。 しばらくして、水分はスムーズに口からとれるようになりました。 その後、食事も少しずつとれるようになってきました。と言っても、少量なので、ドクターからは、何を食べてもいい、好きなものを好きなように食べてもいいと言われました。 しかしなかなか下痢・嘔吐はおさまらず。 果物や、スープ、味噌汁、麺類など、喉いきのいいものは少しずつ食べられるようになってきました。 リハビリも再開。でも、動くと吐き気がしてきます。 そっと様子を見ながら体調が落ち着くのを待ち、動いたり食べたりする日が続きました。 そうして数週間。 ようやく退院の話が出てきます。 食べられる量も少しずつ増え、動く時間も増え、12月20日、退院。 あとは、ゆるゆると自然に治っていくのを待ち、1~2ヵ月の自宅療養の後、社会復帰の予定です。 (2015.12.28現在) 退院から初めての外来でした。 検査の結果は良好、採血の数値もよくなっていました。 お腹の方は変わり映えしませんが、身体もどんどん軽くなり、痛みはもうほとんど感じないようになっていました。 10kg落ちた体重も少しずつ戻り始めました。 ドクターに、「もう何をやってはいけないとかないので。ワーファリンを飲んでいるので、食べられないものはありますが、他は何を食べてもいいですよ」と言われました。 人生が大きく変わろうとしています。 しばらくは、心臓血管のトラブルはなさそうです。 (2016.1.8現在) |
マルファン症候群が指定難病の対象に |